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SKY[Skills and Knowledge for Youth] ホーム Essay 過剰教育、過少教育と知識の適切性

過剰教育、過少教育と知識の適切性山田肖子

私は、大学院で教育開発、教育政策に関する授業を行っていて、毎年、授業の最初に「教育の目的とは何か?」という問いを彼らに投げかける。もちろん、これは教育学の根源に関わる問いで、答えは幾通りもある。教育という言葉の直接的な意味は「教え育てること」であるが、教える内容や方法は多様である。また、そもそも教えるという行為は学ぶ主体がいて成り立つ介入であるので、学ぶ人にとって何が意味のある知識か、ということが重要となる。しかし、そうした教育学の考え方に触れる前の学生は、「教育の目的」というと、知識の内容や学び方よりも、就職や進学といった、学校教育を経て得られる機会を想起することが多いようだ。そもそも、教育とは学校におけるそれだけを指すのではないのだが、「学校に行って卒業資格を得ること」が教育そのものであるかのように思う傾向は一般的に根強い。

そのように考えるのは、日本に限らず多くの社会において、学歴が高い方、あるいは学力レベルの高い学校の卒業資格を持っている方がいい仕事が得られるという、家族や身近な人々の経験則があるからである。確かに、大卒者の数が相対的に少なかった親の世代では、いい大学を出ていれば就職の内定をたくさん得られ、更には就職後の出世も約束されているように思えたかもしれない。自分は学歴がなくて悔しい思いをしたから、子どもには同じ思いをさせたくないと、教育熱心になる親もいたかもしれない。ピラミッド型の学校教育制度に長く留まる人が少ないときには、滞在年数が長いことが付加価値になる。しかし、滞在年数の長さという分かりやすい競争は、大勢がそれを目指し、達成することによって競争の意味を失っていく。高校進学率が97%、大学進学率も55.4%(2020年度データ)という現代の日本において、学士号の有無だけでは、労働市場での競争力が絶対的に高まるとは言えなくなった。同時に、経済成長も鈍化して久しく、高度経済成長時代に、右肩上がりに給与も雇用機会も拡大していた時とは、学卒者を雇用する側の制約も増えている。

このように、将来への投資として学歴を付ける、という発想は、身分や家柄、人種などの属性によって社会での地位や機会が決められてしまう社会であれば成り立たないわけで、学歴さえあれば栄達できるというのは、公平な実力主義(Meritocracy)のようにも見える[1]。しかし、学士が多くなったから修士、修士が多くなれば博士と、学校教育制度の階段を上がり続ければ、他者との相対的比較において、市場価値を高く保てるかというと必ずしもそうではない。実際、工学系など、専門技術を身に付けていたら就職に有利そうな分野でも、博士課程まで行くより修士や学士の方が企業の就職機会が多いということはままある。文系でも、必ずしも大学院に進学したら労働市場価値が上がるわけではない。教育年数が長い分、雇用する企業はより高い初任給を提示しなければならないが、社会人経験がなく学位と年齢は高いという人材は、企業にとっては「費用対効果が薄い」とみなされることがある。また、実際の仕事の場では、同時に採用された新卒者の仕事にそれほど階層性があるわけではなく、学位が高いからといって仕事の選り好みをする人よりは、堅実に仕事を行う能力がある人の方が喜ばれることも少なくない。日本では、高等専門学校の卒業生の就職内定率は、景気の変動があっても常に100%を超えているのに対し、2020年の大卒の就職内定率は12月の時点で82.2%だった。つまり、堅実で産業への適応性の高い技術訓練をしているという定評のある高専の卒業者の需要は常に高いのに対し、大卒者の求人は景気が悪い時は圧縮されるのである。

こうした状況は、労働市場と教育の不整合によって生じるが、それを理解するためには、縦の不整合と横の不整合という二つの軸にそって考える必要がある。まず、縦の不整合は、学校教育の年数の多寡に関するものである。「学歴が足りないから希望する仕事に就けなかった」と考える個人がいるように、雇う側にとっても、「もっと教育水準の高い人材を雇用したいのに、そういう人があまりいない」と思われる場面がある。これは、多くの人の教育が過少である(Under-educated)ために、雇用者のニーズに合っていないケースである。この場合、とにかく教育制度を拡大し、学校教育を受ける人数や就学年数を増やす必要があるとみなされる。途上国政府などが、学校教育の拡充に勢力を注ぐのは、このUnder-educationの状態であれば納得がいく。しかし、教育年数がとにかく足りない、という労働市場側の需要はいずれ満たされる。その一方で、「成功したければ学歴を付けなければ」という一般通念は、労働市場側の状況に関わりなく根強い。また、政府や教育機関も、労働市場の需要の変化を敏感にくみ取ることは苦手である。結果、需要を満たすだけの教育を受けた人材は既に輩出されているのに、教育制度は拡大し続け、人々はより長く学校に滞在しようとする。それによって今度は過剰教育(Over-education)が生じる。先進国では、労働市場と教育の縦のミスマッチは多くの場合、Over-educationの話である(Disjardins 2011; Green and McIntosh 2007)。新興国(Emerging countries)では、過少教育を解消しようという政策を推進していたところ、ある時点から過剰教育に転じるため、ミスマッチの原因がうまく捉えられず、迷走する場合がある。

このような縦の不整合に加えて、そもそも人材の知識や専門性が労働市場の需要に合わないという横の不整合も存在する。大卒者の中でも、特定の学部・専攻では就職率がよく、他は就職難だったりする場合は、この横の不整合が起きている。親や学生自身は、労働市場の需要が今後どう動くか、といった情報にあまり通じておらず、知り合いの様子や自分の経験などから、「○○学部に行って××の仕事に就きたい」といった漠然としたイメージを抱いて大学に進学するのだが、実際には、その産業の人材需要は既に別の方向に向かっていたりする。これを労働市場と求職者の間の情報の非対称という。また、横の不整合の場合は、政府が直接的な方法で調整しようとすると、学部ごとの採用学生数を変動させることになり、教育機関の自律性を阻害することになりかねないので、現実的ではない。そのため、重要なのは、労働市場の需要の変化を的確にとらえる調査研究を恒常的に行うことと、その情報を提供することによって、情報の非対称性を解消して、求職者自らが状況を的確に判断できるようにすることだろう。同時に、一度確立すると硬直的になりがちな教育プログラムを、変化し続ける労働市場の需要に対応して柔軟に調整できるような仕組みに変えていくことも必要ではないか。以前もこの場で述べたように(https://bit.ly/3eBdG2a )、近年では、卒業後の社会で活用できる知識を重視する議論が主流になっている。こうした知識の適切性(relevance)を高める意味でも、横の不整合を調整するメカニズムが必要とされている。

 

[1] もちろん、一見、公平な学歴主義が、実は親の経済力も教育水準も高い家の子どもに有利であったり、そうした家庭は往々にして特定の家柄や人種に偏っていたりするといった指摘は多くの研究者によってなされている(Bowles and Gintis 2002など)。

 

  • Bowles, Samuel and Herbert Gintis (2002). The Inheritance of Inequality. Journal of Economic Perspectives, vol. 16, no. 3, pp. 3-30.
  • Disjardins, Richard and Kjell Rubenson (2011). An Analysis of Skills Mismatch Using Direct Measures of Skills. OECD Education Working Paper No. 63. Paris: OECD.
  • Green, Francis and Steven McIntosh (2009). Is there a genuine under-utilization of skills amongst the over-qualified? Applied Economics, vol. 39, no. 4, pp. 427-439.